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見る側を抜けだして、横の広がりをつくること
急に、道が開けてきた気がする。かといって、進むべき道がはっきり見えているわけでもなければ、足元が舗装されているわけでもないんだけれど。
なんというか、自分が進みたい道を、自分なりにつくりだしていく方法が見えてきたという感じに近いのかもしれない。
(ちなみに、わたしの頭のなかでは、身を低くして、草むらの中からあたりを見回している虎の姿が見えている。自分のことを山姥と思っているくせに、イメージの中ではより一層野性的な姿なんだと気がついた。)
個人的なことにはなるけれど、去年は持病の影響でかなり鬱がひどくなっていて、一年間休職していた。で、休んでいる間、ひたすらカーディガンを編んでいたんだよね。それが、「マタギ」。ガーター編みの、ボタンすらついていない、とにかくシンプルなデザインのものだ。
わたしが今編んでいるカーディガンはすべて、この「マタギ」がベースになっている。使う糸の色や太さ、雰囲気などによって、裾や袖口、全体的なサイズ感などは微調整はするものの、基本は同じ。
マタギが完成したとき、自分のなかですごくしっくりきて、「これだ」と思えて、それから、飽きることなくマタギを編み続けている。今は、こういう色でも編んでみたい、こういう糸でも編んでみたいって、どんどん編みたいパターンが増え続けている。それだけでも嬉しいことではあるのだけれど、SNSで自画自賛しながら投稿していたことも、悪いことではなかったみたいで。
これまで、自分は常に「見る側」で、SNSを使っていたと思う。自分から発信はしていたけれど、どこか内向きというか、外に開かれた発信ではなかった気がする。だから、様々なものをつくって、発信している人々を眺めていて、ぼんやりすごいなって思っていた。わたしにはなかなか真似できないことだと、どこかで思っていて。この人たちが今生きている現実は、自分とは別の世界のものだって。
でも、マタギというカーディガンをつくってから、これまでとは立ち位置が少しだけ変わってきた気がする。何着も何着もマタギを編んで、それぞれの制作過程や、ストーリーや思いみたいなものを細々と発信していくうちに、わたしのjourneyに興味を持ってくれたり、共感してくれたり、気に入ってくれたりする人が少しずつ増えてきたみたいで。
そしたら思わぬ人にマタギを気に入ってもらって、はるばるフィンランドにカーディガンを送り出すことにもなった。そこから更に、マタギに新たな価値をみいだしてくれる人が現れたり、自分でもマタギを編んでみたいという人がでてきたり。
一年前の自分では想像もしていなかった、横の広がりだ。
マタギを通して、前だけじゃなくて、横の広がりの可能性にも気づけたし、「見る側」から、「見られる側」に変わりつつあると感じている。でも、何よりも大事な発見は、「見られる側」になることは、なにも特別なことじゃないんだっていうことに気づけたこと。ただ単純に、行動し続けているということなんだって。つくり続けるから見てもらえるし、その発信にも意味が生まれてくる。
自分がつくっているものを心から良いと思っているから、表現の仕方が変わっていくし、いろんな人の言葉が刺激になって、更につくろうってなる。そういう良いサイクルができること、それが大事なんだなって思う。
それが多分、道のつくり方で。だから、今の自分(虎山姥、略してとらまんば)は編んで、書いて、編んでを繰り返したい。それが、更に横に広がっていくと思うから。
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